BLANCARTE

Curiosity killed the cat, but I love being curious. 軽妙洒脱にいきたいだけ

Here I am in 2016.

あっという間に目まぐるしく過ぎていった。GWもう終わっちゃうね。
日取りの良さに甘えて、ひさしぶりに思いっきり笑って話した日々でした。

GWは、2012年からずっと東京にいるのが当たり前。というのも、ここ3年はMPの観劇とお手伝いをしてるから。

1年に1度約束もしてないのにぞろぞろ集まるわたしたちにとって、ここは超規模な同窓会みたい。
同期の多くは学生を卒業しているから余計、だれもが大人になりつつあることに気づく。
もちろん、IT・人材・映画・広告・教育・保険・ コンサル・ファッション・美容・演劇、と向かう先が違ってて。
でもたとえ、どこにどこまで行ったとしても同じスポットライトを浴びてたっていう事実に何時も、気持ちが軽くなる。
いつか恩返しようって思いつつこの日だけ、思い出話に花を咲かすって決めている。

毎年同じ日同じ場所で出会ってきたのはわたしだけではないからこそ、知らなかった膨大な時間が流れきていることも痛感する。

敢えて今年の気づきを書き残しておくとすれば、
1年ずつ年次を重ねて、気づけば舞台上にいる子達から遠ざかった自分をどこかで鳥瞰しちゃってた。
舞台袖から見る舞台が好きなわたしからすると、舞台を真正面からしか見えなくなっちゃったみたいだった。

殊に50周年を迎えた今年は演目もトリビュート満載だったから、かな?

「わあ、すごかった〜よかった〜!」という月並みな興奮を吐き出して、
当事者から悲惨な制作状況があったことを、言われて初めて知る始末。
観客の立場では「裏」が何ひとつ見えていないことを寂しく思い、
そこを「裏」と言うしかない自分がまたひとつ、歳を重ねてることに気づかされてた。

大変なことなんて、舞台制作においては日常茶飯事だったけれど、
「表」のために「裏」が ”犠牲” になってしまうのは只哀しい。
結果が良ければ良いですね、いやいや過程あってこそじゃない?っていう二律背反のせめぎ合い。

仕事やプロであれば何が何でも「表」が最優先の場合がほとんどでも、
“学生” という立場において彼らの成長や見えない何かが「表」か「裏」なんていうことも、きっと「面」に依るんでしょう。

観客だったわたしは出来上がりしか見れないし、そこに至る文脈を自分の目で見るなんてことは無理。
だからそれだけで良し悪し判断しちゃう。しちゃう、というかするしかない。

どっちが正しくてこっちが間違っているという白黒ではない、その間。
気づいたひとつの真理は、どこが本質なのかはその場で見えてる「面」によって違ってしまっているってことで。
それ以下でもないし、それ以上では、決してない。

 

 

でもそのひとつのアドバイスになったのは、会社の上司方が言ってた “演じられる人が一流” のことば。
正解はわからないし、演劇においてわたしは演じることが兎角ヘタクソだから好きじゃないけど。
でもひとつ確固たる事実というのは、「表」から「裏」を見たときに限り、「裏」が “そう” だったのか “そう” じゃなかったのか何てことは「表」次第だってこと。

思考停止の突き放した回答だとしたら、偶然部屋で手に取った長谷部千彩さんの文章で補填したい。

ふと目をやると、下ろし立ての靴が私のつま先で光っていた。良かった、私の足は幸せそうに見える。少なくとも新しい靴を履いていた今日の私は幸せそうに見える。ほっとして、それから少し考えて、そこには小さな真理があると私は思った。素敵なものを身につけている人は幸せそうに見えるのね。だって、仕立てのいいスーツを着た不幸そうなひとを私は見たことがないし、ダイヤの指輪をつけた手はその輝きの分だけ、襟元に巻いたシルクのスカーフは柔らかな光沢の分だけそのひとを幸せに見せてくれる。もちろんそれは、そう見えるというだけの話。そのひとが幸せかどうか、本当のことはわからない。ファッションと幸せの間に相関関係はない。でも、幸せそうに見えることも大事だと思う。悲しい気分のときだって悲しそうに見えるより、幸せそうに見えた方が絶対にいい。鏡の前で足を揃えてまっすぐに立つ。大丈夫、私の足は新し季節をまとっている。新しい靴が私を幸せの待つ季節に連れて行く。(GINZA/ MAR.2014)

幸せという側面だけに於ける外見と内実の乖離、その乖離は、どうせなら楽しそうだった方が良いということ。
だから演じる方が、良いのかな。いや、でも気持ち在りきでないと演技も薄っぺらいのは壇上と同じね。

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